平成ヒトケタOLの憂鬱~高学歴を添えて~

マッチングアプリでデートにいって素性を明かすとたいてい相手の男性がうろたえる程度の高学歴で大企業勤務。

選抜試験の”価値”をアラサー女が実感した話

転職して何年も経って、いい会社でそこそこ楽しくやれている。わたしは怒りという原動力がないと物を書く気にならないようで、だから、転職してからほとんどこのブログの存在を忘れて生きていた。

たまたまブックマークからこのブログに久々に降り立って最近何か腹立たしいことがあったかなと思って考えてみたけど、あった。

まあいま一番ムカつくことと言ったら森喜朗さんの失言ですよね、話が長いとかなんとか知らないけど議論すること意見することを躊躇させるようなことを言ってはいけないよね、なんのためにその場に人を集めてるのか。そして性別に言及して悪びれないのもどうかと思うよね。問題になった発言が彼本人のものではなく引用だとかいう話もあるが、なんにせよ公の場でエクスキューズなくああいうこと言っちゃうのがもう問題意識なさすぎるでしょ。なんであの人がずっとああいう立場にいるのか本当に不思議。なんかすごいんだろうか、わたしは今回のこと以外は、蜃気楼と揶揄されていたことしか知らないんだけど。

 

でもわたしがここに書きたいと思い浮かんだ腹立たしいことは森喜朗とかオリンピックのことではない。わたし自身がそこそこ(あえて言えば)選抜された世界で生きてきたことを自覚してしまってなんとも言えない気分になったという話。

自粛だなんだでかなり時間を持て余したので、昨年末近所の勉強会みたいなものに登録した。ビジネスケーススタディでディスカッションするみたいなものである。隣の県くらいまでの人が参加してて、年齢層は40代を中心に30-50代がメインであろうか。社外の人と話すことが普段ないし、実践的なディスカッションを謳っていたのでとりあえず数ヶ月試してみることにした。なかにはMBAホルダーとか百戦錬磨のコンサルタントみたいな人がいると聞いていたから、まあなんにせよ場にいるだけでも成長できるだろうと思った。

しかしである。わたしの発言や考えに対して女性ならではですねとか若いからこそだねとか、若いのにすごいねとか、そういうフィードバックばかり食らうのである。もうそれにうんざりしてケースが頭に入ってこないレベル。今どきこういう場に集まる意識の高いビジネスマンが冗談でもこういう言葉遣いするなんて知らなかった。いかに普段似た価値観の人と一緒にいるか、いかに自社の同僚が教育されているかを痛感した。個々がどう考えようが自由なのは疑う余地はないが、とはいえ人にわかるようにこんな言葉遣いでアウトプットする知り合いはこれまでわたしの周りにいなかったし、居たら遠ざけてきた。

そこそこ意識の高いビジネスマンは道徳意識も高く、世論に敏感だと思っていたが本当に自分が甘かったと悲しくなったしイライラした。彼らは普通のおばさんでありおじさんなのだ、そしてわたしはきっと彼らにとって、小生意気な小娘なのだ。経験値の低い発言をして場を掻き乱すかもしれないから邪魔だと思われているし、すこし賢い発言をしたらそれはそれで年長者の威厳に傷をつけるムカつく対象なのであろう。自覚が足りなかった。

 

これまで中学でも高校でも大学でも前職でも現職でもあんまりこういうことはなかった。あったかもしれないけど、一般職のひととか、違う大学の友達とか、"おんなじだ!"とお互い思わないようなひとたちだったから、まあ世の中そういうもんだよな、お互いがお互いを未知なんだから、と流せる関係の人たちだった。

今回の勉強会の人たちは、そこそこ社会人経験を積んでいて意欲のある人たちだからわたしとおんなじだ、と想定してしまったのが諸悪の根源だった。生まれ育った時代も地域も違う、学歴も学校歴も違う、そのコミュニティに入るのに試験はないし、なんなら業務の一部としてくることを許されている(望まれている)ひともいる。ベースの思考力も違えば、真剣度も違う。なんならセクハラパワハラを取り締まる組織がない空間である。わたしの発言をわたしの属性と直結させたうえで評価されるのはめちゃくちゃむかつくが、そうならないであろうと勝手に思い込んでいたわたしが、愚かであった。世の中に多くを求めすぎていた。

わたしがこれまで心地いい、こういう腹立たしさを回避してこられたのは、ひとえにそこそこの基準をクリアした人しかいない空間で生活してきたからなんだと思う。"わたしとおんなじ"に思える人、たとえば同僚は、入社試験で学歴なり容姿なり言葉選びなりで一定のラインを超えてきた人で、社内の厳格な"男女平等"な価値観を刷り込まれてきた人だったのだ。なんなら"世代平等"でもある。女だろうが若かろうが、男だろうが歳を重ねていようが、ひとを個でとらえなさいと、訓練されてきた人たちだ。それができないと悪口をたたかれる文化の人たちだ。こういう文化はなかなか稀なことを忘れて、それを社外に求めてしまった。愚かだった。

 

迂闊にもその勉強会で役割を持ってしまい先数ヶ月は抜けられそうにない。扱うケースやディスカッションは学びが多いからまあ放棄せずに続けるけど、期限が切れた後どうしようか。ある程度選抜された空間で勉強するのが心理的に楽で学びに集中できるのは自明である。でもそういう場(といってもそこそこ有名な大学院、なんなら海外とかしか浮かばない)に選抜してもらうための素養は今の私にないから、分相応をわきまえるしかないのか。

大学受験まで偏差値で集団を区切る世界に生きていたけど、今思うとなんと楽な世界だったのだろうと思う。会社も然り。まさか受験や入社試験というシステムがわたしにとって自尊心を満たすだけじゃなく、楽に、ストレスフリーで、学びを深める場所を提供してくれるという価値を持っていたと今更気づいたのである。